Chapter 776
少しだけ、あなたのそばにいたくて
一時的に高橋美咲と離れてはいたが、九条蓮は彼女から遠ざかるつもりはなかった。
九条家の大旦那様の干渉がなくなった今、ようやく自分の思うままに高橋美咲に近づくことができる。
まだ高橋美咲の前にある障害をすべて取り除けていない以上、以前のように彼女と和解したり、連れ戻したりはできない。だからこそ、今自分がしていることを彼女に伝える必要もなかった。
九条凛が尋ねた。「それで、本当に彼女の向かいの部屋に引っ越したの?」
九条蓮の参謀である九条凛は、彼の行動をすべて把握しており、彼が高橋美咲の向かいに引っ越したことも当然知っていた。
九条蓮は低い声で「そうだ」と答えた。
九条蓮のはっきりとした返事を聞いて、九条凛は「お兄ちゃん!まさかここまで成長するなんて思わなかったよ。もう私が教えなくても自分で動けるなんて、本当に感激だよ!」と声を上げた。
「今度こそ絶対に美咲さんとやり直せる気がする!」
九条蓮の表情が少し和らぎ、眉間に優しさが滲んだ。
あとは二人の間にある障害を一つずつ取り除いていくだけだ。すべてが整えば、きっと彼女と一緒になれる。
…
翌朝、高橋美咲は念入りに身支度を整え、晴れやかな気分でF社との提携の打ち合わせに出かけた。
出かける際、昨日引っ越してきたばかりの向かいの部屋のドアが開いているのが目に入り、何気なくそちらを見た。ちょうどその部屋の住人も出てくるところだった。
高橋美咲はすれ違うのを避けようとしたが、スーツ姿の男性の後ろ姿が目に入り、なぜかどこかで見たことがあるような気がした。
その時、男性が振り返り、高橋美咲は見覚えのある端正な顔を目にした。
「九条蓮!」思わず声を上げ、目を見開いた。信じられない思いだった。
なぜ九条蓮がここに?向かいの住人は昨日引っ越してきたばかりのはず。まさか昨日引っ越してきたのが九条蓮だったの?
そんなはずはない。彼は九条家本邸にいるはずなのに。
九条蓮は高橋美咲を見ると、微かに微笑み「おはよう」と声をかけた。
「おはよう…」高橋美咲は反射的に返した。
高橋美咲の驚いた表情を見て、九条蓮の顔に寂しげな色が浮かび、静かに言った。「お祖父様に追い出されて、行くところがなくてここに来たんだ。こうして少しでも君の近くにいられるだけで、毎日君の姿が見られれば、それだけで満足なんだ。」
「…」高橋美咲は唇を噛み、しばらく言葉が出なかった。
実際、九条蓮ほどの立場と能力があれば、たとえ追い出されたとしても行くところがないはずがない。
彼の名義の家はたくさんある。この言い訳は自分でも信じられなかったが、きっと自分のためにここに来たのだろう。
高橋美咲は少し胸が熱くなったが、もう九条蓮を巻き込まないと決めていた。だから彼がこうして近づいてきても、心を強く持たなければならなかった。
彼女は薄く微笑み、「最近は会社のことで忙しくて、あまり帰れないかもしれない。あなたも仕事が忙しいでしょう?」と口にした。
高橋美咲は丁寧に九条蓮を遠ざけようとしていた。もう自分に気を遣わなくていいと伝えているのだ。
九条蓮は高橋美咲の最近の仕事状況をよく知っていた。実は裏でこっそり彼女にリソースを手配したばかりだった。しかしそれを明かさず、ただ意味ありげに口元を緩めた。
空気が急に気まずくなった。
高橋美咲は九条蓮が自分を見ているのを感じ、目を合わせるのが怖くなり、慌てて「まだ用事があるから、じゃあ」とその場を離れた。
去っていく高橋美咲の背中を見つめながら、九条蓮の口元はさらに深くほころんだ。
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