Chapter 675
君はまだ、僕の妻だ
黒川善は静かにやってきて、ドアの外でしばらく耳を澄ませていたが、まるで最初から来なかったかのように、二人に気づかれることなく静かにその場を去った。
高橋美咲はふと思い出したように言った。「でも、私、妊娠してないよ。もしその時になって……」
九条蓮は目を細めた。彼にとっては、そんなことは問題ではなかった。今妊娠していなくても、これからそうなればいいだけの話だ。
彼の視線は、意図的なのか無意識なのか、高橋美咲のお腹に向けられた。
ここで話すことではないと感じた九条蓮は、病室を一瞥してから「行こう。まずは家に帰ってから話そう」と言った。
「家に帰る」という言葉を聞いた高橋美咲は、少しぼんやりした気持ちになった。
離婚届にサインした時点で、もう二人は他人になったはずだ。帰る家なんて、もうないはずなのに。
だが彼女が何か言う前に、九条蓮は手を伸ばして美咲の手を取り、そのまま外へと連れ出した。
真壁直人がすでに車を回して待っていた。二人は一緒に車に乗り、九条蓮の一戸建てへと戻った。
高橋美咲は目の前の家を見つめ、懐かしさと戸惑いが入り混じった複雑な感情が胸に湧き上がった。
ほんの三日前、ここで九条蓮から渡された離婚届にサインし、他人になったばかりだった。それなのに、またこうして彼と一緒に戻ってくることになるなんて思いもしなかった。胸に込み上げるものがあった。
玄関先で立ち尽くす美咲を見て、九条蓮はそっと近づき「どうした?」と優しく声をかけた。
「なんでもない」高橋美咲は慌てて首を振った。
九条蓮は美咲の手を握ったまま、家の中へと導いた。
一戸建ての中は広々としていて、どこも洗練された上品なインテリアで飾られている。高橋美咲が出て行った時と何も変わっていなかった。九条蓮は穏やかに「今夜は何が食べたい?真壁に買ってきてもらうよ」と言った。
高橋美咲は、さっきからずっとぼんやりしていた。まだ整理できていないことがたくさんあった。
今は二人きりだ。
その時、美咲はもう迷わず、九条蓮の腕を引いて「ご飯のことは後でいいから、まだ聞いてないことがあるの。まず私の質問に答えて」と言った。
九条蓮は美咲をリビングのソファに座らせた。
美咲は九条蓮を見つめて尋ねた。「さっき九条家の大旦那様に何て言ったの?約束したって言ってたけど、どんな約束?」
九条蓮は隠すことなく、九条家の大旦那様と交わした約束について、困ったように語った。
話し終えると、九条蓮は罪悪感を滲ませた目で美咲を見上げた。「美咲、しばらくは我慢してもらうことになるけど、あとで必ずお祖父様に認めてもらう方法を考えるから」
美咲はその言葉を聞いて黙り込んだ。
しばらくして、ようやく口を開いた。「でも、私たち離婚届にサインしたし、もう本当は夫婦じゃないよね。条件なんて関係ないし、無理しなくていいよ」
美咲は九条蓮のために自分が我慢しているとは思っていなかった。ただ、彼が板挟みになって苦しんでいるのが辛かった。
九条蓮は、ただ一緒にいたいという思いだけで、あらゆる手を尽くしてくれた。犠牲になっているのはむしろ彼の方だ。
「実は……」九条蓮は困ったようにため息をつき、美咲を見下ろした。「確かにサインはしたけど、離婚届は受理されていない。君はまだ僕の妻だよ」
九条蓮の言葉に高橋美咲は呆然とし、しばらく反応できなかった。
まさか、サインしたのに受理されていなかったなんて。じゃあ、今もまだ九条蓮と夫婦のままなの?
本当に?
高橋美咲は驚きで頭が真っ白になった。
九条蓮は美咲を腕の中に引き寄せて言った。「最初はお祖父様を騙して、君との関係を一時的に和らげるつもりだった。でも、君が僕に隠れて黒川善と一緒にいるなんて思わなかった」
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