Chapter 612
もし逃げ出したら
九条蓮は当然のように「分かってます」と答えた。
九条凛は頬杖をつき、九条蓮と高橋美咲をキラキラした目で見つめていた。まるで小さなファンのようで、高橋美咲がもう怒っていないと聞くと、
「やった!やっと全部終わった!これで私もお兄ちゃんも、毎日身バレを心配しなくて済む!」と嬉しそうに声を上げた。
この身分のことで、どれだけ脳細胞をすり減らし、どれだけ嘘を重ねてきたことか。
もう正体が明らかになった今、九条蓮と高橋美咲は代官山パークレジデンスには戻らず、その夜は九条家本邸で眠ることになった。
バスルームには柔らかな水音が響いていた。高橋美咲はすでにシャワーを終え、ベッドに座って部屋を見回していた。
九条蓮の九条家本邸の部屋は、代官山パークレジデンスの部屋よりもずっと豪華で、広さも桁違いだった。
今日起きたことは、まるで夢のようだった。
明日目が覚めたら、全部夢だったんじゃないかと本気で怖くなった。
高橋美咲は自分の太ももをつねってみた。はっきりとした痛みが伝わってきて、どうやら夢ではなさそうだった。
カチャリ。バスルームのドアが開き、湯気に包まれた九条蓮が出てきた。ベッドの上で自分をつねっている高橋美咲を見つけ、口元を楽しげにゆるめて「美咲、何してるの?」と聞いた。
「夢かどうか確かめてたの。」
九条蓮は低く笑い、ベッドに近づいて高橋美咲を抱き寄せた。「夢じゃないよ。全部現実だ。」
その言葉で高橋美咲はようやく我に返った。九条蓮が微笑みながら見つめてくるのを見て、少し恥ずかしくなり、頭を隠して小さく咳払いし、平静を装った。「シャワー終わったの?」
「うん。」九条蓮は隣に横になった。
そのとき、高橋美咲は岩瀬一真のことを思い出した。今日まだちゃんと聞けていなかった。
慌てて九条蓮の腕をつかみ、「岩瀬一真のこと、どうなったの?本当に私に何かしようとしたけど、未遂で終わったの。怖くて思わず刺しちゃって、血だらけだった。死んだかどうかも分からない。」と口早に言った。
その話題を出すと、高橋美咲はまだ恐怖が残っていて、顔色が青ざめ、体も震えていた。
九条蓮の表情は曇り、目に一瞬痛ましさが浮かんだ。
すぐに高橋美咲を強く抱きしめ、「死んでない。でも重傷だ。これからのことは心配しなくていい。美咲を傷つける奴は、絶対に許さない」と優しく囁いた。
九条蓮の胸に寄り添い、力強く安定した心音を聞いていると、高橋美咲はようやく心から安心できた。
以前は、夫が突然別人になったようで信じられなかった。でも今は、彼はやっぱり彼で、自分を大切にしてくれる人だと実感できた。身分なんて関係ない。
でも——
高橋美咲は目を細めて九条蓮を見つめ、「佐伯葉月はあなたの正体を知ってたの?お祖父様が決めたお嫁さんって彼女?」と問い詰めた。
九条蓮は困ったように「うん、でも無視した」と答えた。
「お祖父様、私のこと嫌いだよね。」
「美咲、俺が好きならそれでいい。お祖父様がどう思うかはお祖父様の問題。一生一緒にいるのは俺だし、もし嫌われても会う回数を減らせばいい。東京で一緒に暮らそう。」
高橋美咲は九条家の大奥様と大旦那様のことを思い出した。まさかあんな立場の人たちだったとは思わなかった。
でも、それを除けば、ただの普通のお年寄りだった。あの日、山里で九条家の大奥様が「子や孫が誰も会いに来ない」と寂しそうにしていた。肩書きを取れば、やっぱり哀れな老人なのだ。
自分のせいで九条蓮を家族の縁から切り離す理由はない。
高橋美咲も九条蓮を抱きしめ返し、「大丈夫。私もお祖父様に認めてもらえるよう頑張る。あなたも無理しないで。私が板挟みにしたりしないから」と優しく言った。
九条蓮は感動し、高橋美咲をさらに強く抱きしめ、頬にキスをした。
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