Chapter 4
偽りの九条蓮(続き)
「あなたも、怒ったまま婚姻届にサインする人には見えません」
美咲の顔が熱くなる。「偽物だと思ってた」
「それでも無謀には変わりません」
「ひどい夜だったの」
「僕も同じです」
彼は救急箱を閉じた。その音が妙に決定的に響いた。
美咲は彼の手にある婚姻届受理証明書を見つめた。「本物なら、取り消せるはず」
「たぶん」
「たぶん?」
「まず、凛があなたに何を言ったか話してもらいましょう。それから、彼女が言わなかったことも」
美咲はもう一度部屋を見回した。どれも、他人の車を運転するだけの人の持ち物には見えない。棚の本は初版本、暖炉の上には最近オークションで美咲の年収以上で落札された画家のスケッチが飾られている。
「本邸に住んでるんですね」
「必要な場所で働きます」
「それも答えになってません」
「あなたは質問を集めるのが得意ですね」
「誰かがやらなきゃ。目が覚めたら結婚してたんだから」
彼の視線が鋭く美咲に向けられる。「あなたが記録にサインした」
「あなたの妹が偽物だと言ったから」
「凛は僕の妹じゃありません」
美咲は瞬きをした。「彼女はあなたが運転手だと」
「凛は、自分が面白いと思う結果になるとき、いろんなことを言います」
その返答は本来なら腹立たしいはずだった。だが、むしろもっと恐ろしい可能性が浮かび上がる。もし彼が運転手でないなら、なぜ美咲にそう思わせ続けたのか。この部屋の持ち主が、なぜ見知らぬ女が九条蓮の名で書類にサインしたことを気にするのか。
スマホが再び震えた。今度は病院からだ。美咲は勢いよく立ち上がり、視界が揺れた。
「母のことです」
看護師は短く要件を伝えた。朝の投薬が承認され、支払い窓口は金曜までに新たな手続きを求めている。これ以上の猶予はない。美咲は礼を言い、必ず対応すると約束し、声が震える前に通話を切った。
男はその間、背を向けていた。美咲が話し終えても、同情の言葉はなかった。
「金曜までですね。期限がある」
「私にも人生がある」
「僕にも」彼の声は変わらず穏やかだが、スマホには見せないメッセージが次々と届いている。「だからこそ、他人に決められる前に条件を決める必要がある」
彼のスマホが震えた。画面を確認した彼の顔から、わずかに平静さが消えた。
「祖父がこちらに向かっています」
美咲は彼を見つめた。「運転手の書類に、なぜお祖父様が関心を?」
男は証明書を折りたたみ、ポケットにしまった。
「なぜなら」彼は言った。「九条蓮の妻のこととなれば、祖父はとても気にするからです」
高橋美咲は彼の後についてリビングへ入った。ひとりで祖父を待つよりは、存在しないはずの結婚を気にする祖父の前で待つよりは、その方がまだましだった。
男はグラスに水を注ぎ、美咲に手渡した。「最初から話してくれ。」
「そちらが先に。」
彼の目が鋭くなる。「交渉できる立場じゃないだろう。」
美咲はグラスをテーブルに置いた。「見知らぬ男の家で、その人の名前が婚姻届に載ってる。これ以上交渉に向いた状況ってある?」
一瞬、彼は微かに笑いそうになったが、すぐに表情を戻した。
「九条凛が俺の書類を無断で使った。君の書類と一緒に提出した。記録は有効だ。」
「否定しないのね。」
「しない。」
美咲は呼吸を整えた。母は病院のベッドにいる。銀行口座はすでに限界を超えている。昨日まで別の男性との結婚を考えていたのに、今朝には名前も知らない男と法的に結ばれていた。
「じゃあ、取り消しましょう。」
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